三浦綾子文学の背景と特徴(1)

難波真実

小説『氷点』で1964年にデビューした作家三浦綾子(1922 – 1999)は、35年間にわたる執筆生活と没後の出版において、合計130もの作品を世に送り出しました。うち、単著が99。その内訳は、小説55、エッセイ集42、童話1、戯曲1です。

三浦綾子記念文学館(北海道旭川市)では、三浦綾子文学のテーマを「ひかりと愛といのち」として紹介しています。私はそこに「ぬくもり」を加えて、三浦綾子文学を捉えているところです。

三浦綾子文学の背景と特徴 6つ

この文学の背景と特徴に挙げられる主なものは、

  • 元学校教師であること
  • 敗戦による挫折を味わったこと
  • 長い闘病生活を送ったこと
  • キリスト教信仰を持ったこと
  • 雑貨店経営をしたこと
  • 夫との口述筆記で執筆したこと

の6つではないかと私は考えています。今号はこのうち、元学校教師であることについて皆さまにご紹介したいと思います。

自伝作品 6つ

三浦綾子は、自伝小説を4作、自伝的エッセイを2冊出しています。時期の順に挙げますと、

幼少期の『草のうた』(角川文庫)
学生および教師時代の『石ころのうた』(角川文庫)
療養期の『道ありき』(新潮文庫)
新婚期の『この土の器をも』(新潮文庫)
作家デビュー後からの『命ある限り』(角川文庫)
前作の続きから絶筆までの『明日をうたう 命ある限り』(角川文庫)

という並びになります。上の4つが小説、下の2つがエッセイです。

作品群に通底する“教師イズム”

教師時代のことを描いた『石ころのうた』、そして教師を辞めてからの『道ありき』をお読みいただくと、その当時のことが本人の心境も含めてよく分かりますので、詳しくはそちらにおまかせしますが、三浦綾子作品に通底するのは、私は“教師イズム”だと思います。

高等女学校を卒業してすぐに、三浦(旧姓:堀田)綾子は、歌志内という炭鉱街の小学校に教員として赴任します。ここで3年と少し、その後旭川に移り、残りの学期と3年、合計7年間務めました。

文字通り一所懸命に励んだ彼女は、児童たちに全身全力で向き合い、教師としての務めを果たしました。自伝や、かつての教え子の方々からお聞きしたエピソードなどを総合すると、私が受けた印象としては、いわゆる“天職”だったのだろうと思います。ですから、教師を辞めたときに引き起こされた痛みや苦しみというのは、彼女にとってあまりに大きなことだったろうことは想像に難くありません。

しかし、この“元教師”の感覚を持ち続けたまま、三浦綾子は作家となりました。おそらく、“作家として第二の教師人生を歩み始めた”、そういうことなのだろうと思うのです。

三浦綾子の小説作品には、多くの教師や児童・生徒が登場し、学校や教室の場面が描かれます。これらは、描写の解像度を高く上げるとともに、彼女が伝えたかったメッセージを入れる器としてぴったりだったのだと思いますが、だからといって、それらの描写をもって“教師イズム”と申し上げているのではありません。

三浦綾子の“教師イズム”とは?

私が考える“三浦綾子の教師イズム”は、「伝えたい、伝えなければいけない(と思う)ことがらを、いつ、どこで、どんな順番(組み立て)で、どんな姿勢や表情や身振り手振りで、何を指し示しながら、どのような語句で、どれぐらいのトーンや強さ弱さで言葉にすれば相手に伝わるか(相手が受け止めて、そのように動いてもらえるか)を考え抜いたうえで、真心をこめて話しかけること」にあります。

この感覚は、教師経験のある方々ならお分かりになるのではないでしょうか。かくいう私も、保育士(一時期、放課後児童クラブの指導員もしていました)でしたので、園児たちとの関わりは、いつもこのようなことを意識しておこなっていました。

三浦綾子は、名のある賞を受けたことはありませんでした(唯一の例外が『銃口』で受賞した1996年の第1回井原西鶴賞)が、本人はまったくそのことを気にしておらず、むしろ自分の評価軸がそこにはないことを表明しているほどでした。私が思うに、それは強がりでも悔し紛れでもなく、シンプルにそうだったのだろうと受け止めています。それは“教師イズム”にも関わることでありますが、三浦綾子が作品を世に送り出す目的が「真心をこめて話しかける」ことにあるのだとすれば、それが文壇から評価されようとされまいと、何ら関心がないといいますか、気にする必要がないというのが本音のところだと思うのです。

三浦綾子は常々、「小学校5年生の子でも分かるようにと意識している」と話していましたが、これは“わかりやすくする”、という意味合いだけでなく、彼女がどんな感覚で作品を書いていたのかがよく分かる発言として注目したいところですね。つまり、「読者に話しかけていた」のだろうと思います。ここが、三浦綾子文学を理解するためのポイントと言えるでしょう。

読み継がれる三浦綾子作品 その理由は?

三浦綾子記念文学館の創設に携わった方の一人に、木内和博氏がいますが(優佳良織の織元木内綾氏のご子息、優佳良織工芸館館長)、彼が生前よく語っていたのが、三浦綾子記念文学館の初代館長に高野斗志美氏(文芸評論家、旭川大学元学長など)を選任するときのエピソードでした。なぜ、大きな受賞歴もない作家である三浦綾子の本が、これだけたくさん、長く読み継がれているのか(発行され、販売され続けているのか)、不思議ではないかと高野氏が問うた際に、「それを解明するのがあなたの仕事じゃないか」と返し、館長になることを約束させたと、木内さんは懐かしそうに振り返っていました。その高野館長が言い表したテーマが、「ひかりと愛といのち」です。私は、名言だと思って、とても大切にしています。

それにしても、本当になぜ、三浦綾子の本は読み継がれるのか、不思議ではありませんか? 新潮文庫、角川文庫ともに、夏のキャンペーンを開催していまして、新潮では『塩狩峠』、角川では『氷点』が毎年選ばれています。ありがたく、そして大変嬉しいことです。

なぜ読まれるのか? その答えは、私は“教師イズム”から生まれているのだろうと推察しています。つまり、

〈真心をこめて話しかけている〉

からだと思うのです。

小説というのは文芸であり、芸術作品ですから、本来は自己表現ですよね? ところが三浦綾子の場合、自己表現を主眼にしていなかったというところが最大の特徴で、やはり彼女がしたかったことというのは、「話しかけること」だと思うのです。教師が、生徒に向き合うように。

前述した、「伝えたい、伝えなければいけない(と思う)ことがらを、いつ、どこで、どんな順番(組み立て)で、どんな姿勢や表情や身振り手振りで、何を指し示しながら、どのような語句で、どれぐらいのトーンや強さ弱さで言葉にすれば相手に伝わるか(相手が受け止めて、そのように動いてもらえるか)を考え抜いたうえで、真心をこめて話しかけること」を、各種の媒体で展開した、ということだと思うのです。

その皮切りが、朝日新聞での『氷点』であり、そのきっかけとなったのが手記『太陽は再び没せず』(月刊「主婦の友」1972年11月号)の入選と掲載でした。

三浦綾子にとっての「文章」とは?

三浦綾子は、各媒体の編集担当さんとのやりとりを通じて、“教師的感覚”で相手方の要望(オファー)を汲み取ったのだと思います。あたかも教師が、目の前の生徒たちの表情や目線、言動から、興味や関心、気力、眠気、心境、人間関係の変化などを読み取るように。それがいわゆるマーケティング行動として的中し、結果を出した。つまり、人気作家の看板を掲げることに成功したわけですね。人気・不人気は、おそらく本人の意図せざることで、彼女自身は、書く場が与えられていることに感謝しているだけなのかもしれませんが、結果としてはそうなった、ということだろうと思います。

文芸としては、文章(テキスト)の組み立てや、文脈のつながりが重視されるところ(つまり、「ここしかない」という必然的な配置や配列)を、文章表現としてではなく、言うなれば「どう伝えるか」「どう伝わるか」を主眼にした方法で著した作家といえるでしょう。

三浦綾子にとって文章とは、表現方法ではなく、“伝達方法”だったのです。

私は、三浦綾子の小説作品で、オノマトペ(擬音語・擬態語)がどのようにどれぐらい使われているか、一文ずつ抜き出して整理している最中ですが、『氷点』で300語、のべ1,126回使われていることが分かりました。他の作家との正確な比較検証をしていないので確実なことは言えませんが、印象としては使用頻度の高い作家だと思っています。興味深いことに、『道ありき』『草のうた』などの自伝小説では、使用頻度がかなり低くなるのです。他の小説とは意識の仕方が異なっていたのだといえるでしょう。

彼女がオノマトペを多用する理由は、これまで私は、“分かりやすい表現”の方法を意識した結果だと思っていました。しかし、どうやら真相は違うような気がします。

“伝達しやすい”方法を選択した結果、と私は見ています。分かりやすい表現とどう違うのか、それは微妙なのですが、要は、主眼が、表現か、伝達か、という違いなのではないかと。三浦綾子は文章表現をしたかったのではなく、「言いたいことが伝わるかどうか」に重きをおいた、そう言えるのではないでしょうか。

話しかける、三浦綾子文学

教師は、児童・生徒に向かって、自分の作品を発表することはほぼありません。特に授業では。自己表現の場ではなく、教育の場であるからです。児童・生徒が、受け止めてくれること、理解してくれること、考え、想像思索し、興味や関心を呼び起こし、自らへの問いとして命題を立てること、そしてそれを自分なりに解き明かしたり解決したりするために行動すること、それらを期待して、教師は「話しかける」わけです。これですね、三浦綾子文学は。最大の特徴がここにあると思います。

ですから、そうなるのでしょう。三浦綾子作品を読むと、問われているような気がするのは。「あなたなら、どうする?」と訊かれているように思えるのは。「ああ、面白かった!」で済ませられればいいものを、なぜか、心のどこかにひっかかりを覚えて、暮らしの中でふっとそれらが呼び起こされる。

作者に話しかけられている、そういう作品群なのだと思います。三浦綾子の“教師イズム”が成せるわざなのでしょうね。

“教師イズム”発動のきっかけとなった2人

実は、この教師イズムが発動されるきっかけとなったと思われる人物が2名います。自伝小説『道ありき』と、同じく『この土の器をも』をお読みになるとお分かりかと思いますが、幼馴染で恋人の前川正さん、そして夫の三浦光世です。もしかしたらもう1人、『石ころのうた』に登場する青年Eが、芽生えのようなものだったのかもしれませんが。

いずれにしても、三浦綾子の人生を決定づける存在として、前川さんと光世は位置しました。この2人は教職者ではなく、本当に一般的な人でした。前川さんは薬剤師の息子で、医学部の大学生でしたし、光世は開拓農家から転身したサラリーマンの息子で、営林署(局)に勤める公務員でした。けれども、彼らの関わり方は、非常に教育的なもので、「教師的な態度」といっても言い過ぎではないほどのものだったように見えます。ふたりとも、教育学を修めた者のようなふるまいで綾子に接しました。これが偶然なのかどうか。歌人でキリスト者という共通点もさることながら、綾子への関わり方は、非常に教育的配慮に満ちていました。

軍国教師として邁進していた綾子は、終戦によって心が折れて退職し、自暴自棄になるわけですが、そんな彼女に寄り添い、支え励ましたのが前川さんであり、その後は光世でした。彼らの持つ“教師イズム”が綾子を立ち直らせ、生きる希望を見出させる道筋となったことは間違いありません。この関わりではないでしょうか。熱心な教師であった綾子の教師イズムを再点灯させたのは。

そこに愛があった

真心をこめて向き合う、話しかける、という寄り添い方が綾子の心を救い、立ち直らせたのであれば、人の持つ真実というものの表しかたも、そこにある、とでもいいましょうか。

言い換えれば、「そこに愛があった」という大きな体験を綾子はしたのでしょうし、そもそも綾子自身が、児童に対して(盲目的ではあったかもしれないが)とってきた態度というのは、まさに教師としてのそれでした。そう、そこに愛があったはずなのです。まちがいなく、綾子は児童一人ひとりを真剣に愛して教育していました。そのありかたとして、真心をこめて向き合う、話しかけるということをしていたに違いないのです。

教師を辞めた綾子でしたが、自分の心が再生されるにつれ、周囲の人々、ひいては社会の人々に、「あなたも生きてほしい」と伝えたくなった。自身の過ちや恥ずかしい歩みを教材に、「それでも、人は生きていく価値がある」「与えられた人生を大切にしてほしい」と、話しかけたくなった。その方法として、教室ではなく、文章を選んだ、そういうことだと思います。

綾子は、前川さんに勧められて短歌を詠んでいました。私は彼女の歌が好きです。情景が目に浮かぶようで、それでいて心のひだにそっと触れられたり、あるいはドキッとするような視線を感じたりするのが好きなのです。

しかし、小説を書くようになって、彼女は歌を詠むことをしなくなりました。私はこれまで、それを分野(ジャンル)の変化だと捉えていましたが、どうやら違うようだと気づきました。俳句は景色や場面を描き、短歌は心情を描く(極端に単純化すれば、の話ですが)と、田中綾先生(三浦綾子記念文学館館長、北海学園大学人文学部教授、歌人、評論家)が教えてくださいました。それで気づいたのです。

やはり三浦綾子は、自己表現をしたかったのではなく、メッセージを伝えたかったのだと。彼女の短歌は素晴らしいものでしたが(歌集も出版されました)、メインはそこではなく、話しかけることにあったのだと。

冒頭で挙げた背景と特徴に、「雑貨店経営をしたこと」というのがありましたね? 三浦綾子にとっての短歌と小説との関係と同じような構造が、そこにも見えてくるのです。

肺結核と脊椎カリエスの長い療養生活を終えて、少しずつ健康を取り戻した彼女は、教師として再就職することを選ばず、雑貨店の主人となりました。「二度と同じ過ちを繰り返さない」という固い決意があってのことでしょうが、彼女は生涯、教師としては教壇に立ちませんでした。

伝える場としての「店先」

しかし、結婚した彼女が着手したのはお店の経営。会社の経営ではなく、お店の主人になることでした。このあたりのいきさつは自伝小説『この土の器をも』に詳しいので、そちらをお読みください。私が申し上げたいのは、なぜお店だったのか、ということ。それは、「店先」に答えがあるからです。そう、話しかけること。お客さんとの対話が生まれる場所。話しかけることができる場所。まさか、店先で人生相談をしたかったわけではないでしょうが、人との関わりが生まれる場所を、自らの手で作りました。行動力のかたまりですね、三浦綾子は。彼女と親交のあった花香純夫さんが教えてくれたエピソードに、宣教師が三浦綾子を評して「ミセス・ブルドーザー」とよく言っていたというのがあります。まさにドンピシャの表現ですね。ちなみに、光世は「ミスター・ブレーキ」と言われていたらしいです。面白い夫婦ですね。

雑貨店を始める前も、三浦綾子は「話しかける人」であったことが、自伝小説『道ありき』に描かれています。心が立ち直る前は、ただ単に、病床の周りに人が集まっているだけという状態もあったようですが、彼女は人を惹きつける才があったのか、常に人が取り囲んでいました。しかし、生きることに前向きになっていったとき、彼女の「話しかける才」は、人を生かす方向に使われていきます。すでにそこから始まっていたのでしょう。そして、雑貨店につながり、手記の入選、そして『氷点』へと。作家デビュー後は、雑貨店を閉じて、執筆に専念します。両立が難しいというのももちろんあったでしょうが、目に見える構造的には、さきほどの、短歌から小説へ、ということに似ていて、「店先」から媒体(新聞、雑誌)へ、という流れになるのです。つまり、「話しかける人」なのです。どこにおいても、なににおいても。これが分かると、三浦綾子文学の中心が見えてきます。

社会の一人ひとりに話しかけた三浦綾子

死のうとしたのに死ねなかった(斜里の海での自死未遂)こと、死の病(肺結核など)にったのに生き延びたこと、生きたかったはずなのに死んだ人たちのこと(前川さんも含めて)、それらを通して至った強い思い。現在(いま)の人たちに、「生きて!」「自分も人をも大切にして!」と伝えたくなった三浦綾子は、叫ぶように、力を振り絞るように、言葉にした。「伝わる」「届く」話し方にした。問いが生まれるように語りかけた。行動につながるような伝え方にした。それが、三浦綾子文学なのだと思います。元学校教師であった三浦綾子は、自らの教師イズムをフル活用して、「社会の一人ひとりに話しかけた人」になったのでした。

私も微力ながら、この三浦綾子文学を通して、社会の一人ひとりに話しかけていきたいと思います。

さて次回は、口述筆記のことについてご紹介したいと考えています。では、また。

難波真実
三浦綾子記念文学館公式LINEアカウント@hyouten

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