合唱組曲「信仰、希望、愛 三浦綾子への頌歌(オード)」~ⅲ 命の讃歌~ その①”光”

ゑむゑむ@バーズ

さて、今回は組曲の3曲目「ⅲ 命の讃歌」についてです!

この曲は、「命の讃歌・・」とあるとおり、「讃美する歌」です。
平たく言うと「よかった!」「うれしい!」「最高!」「幸せ!」「ありがたい!」「バンザイ!」といった、喜びやほめたたえの感情に満ち満ちた歌だという雰囲気が、曲調からも感じられます。
ならば、このあふれ出る喜びはどこから&なにゆえもたらされたものなのか? ということを考えていきます。


そして! 私が感じた、この曲のテーマは「光と愛と命」
三浦綾子といえば・・・「ひかりと愛といのち」の作家と言われていますよね♩

また、この「命の讃歌」は、イエス・キリストの御名こそダイレクトには出てこないものの、三浦綾子のまさにクリスチャンとしての部分にスポットを当てて書かれた曲だと感じました。
そのため、キリスト教にあまりなじみのない方にとっては解釈の難しい部分があるのではと思い、キリスト教の教義にも触れながら曲を考察していきます。

しかし…今回扱うテーマがあまりにも壮大すぎるのと、わたし自身まだ求道中であって、聖書も三浦作品も完全に読み切っていない状態で書いているため、片手落ちどころか諸手落ちな説明になってしまうと思います。
ですが、この曲の魅力を少しでもお伝えできれば・・・と願っています!

言うなれば、「三浦綾子とキリスト教概論」を受講している学生が「命の讃歌」という合唱曲をベースに、自分なりにまとめたレポートといった趣でこの記事を読んでいただけますと、温度感や、テーマについての解像度の粗さが伝わるかと思います。
温かい目で見守ってくだされば幸いです!


なお、教義についてはさまざまな解釈や考え方があると思いますが、ここは #綾活 ですので、三浦綾子(プロテスタント)が作品を通して伝えていたことに即して考えていきます。
もし、肌に合わないと感じられましたら、途中であってもすぐにこのページを離れていただいてかまいません。

また、この曲については大きく「」「」「」に章立てして述べていくのですが、それぞれの文量が膨大になってしまい、とても1つの記事にまとめることができなかったので、複数回に分けていきたいと思います!
厳密に言うと、この3つはそれぞれがお互いに深く関わりあっており、重複する部分も多く、分けにくいところもあるのですが、今回は主に「」についてみていこうと思います。

曲の紹介

まずは歌詞をみていきましょう!
歌詞の中にも、テーマである「」「」「」がちりばめられているので、色をつけてみました。


命の讃歌
(作詞:難波 真実/作曲:松下 耕)

あれ 大空あれ よ満ちよ
神の言葉で造られしこの世界で
わたしは生きる

陽も月も 闇の中で を放て
迷いと孤独に打ち勝つを信じて
わたしは生きる

神はわたしを生かし 限りないで満たす
このに赦されて わたしは生きる
このはわたしを生かし
このに赦されて
このはわたしにも
赦しする力を与えてくれる

傷が痛み 虚無に怯え 病に悩み
望みを失くし
生きることさえやめようとしてしまう
わたしを
神は そばで見ておられる
御手で守り 新しい力を与え
翼を与えてくださる
だから わたしは 恐れない

ある限り
恵みと慈しみが わたしを包む

草も樹も 鳥も獣も 生命を燃やせ
かけがえのない一度きりの人生を
わたしも生きる

ああ よ すべてを照らせ
ああ よ すべてに満ちよ

この世界をで満たし
平和を打ち立てたまえ
その働きを為すために
神よ わたしを遣わしたまえ

キリスト教において、というものは特別な意味を持ちます。
神さまがこの世界をお造りになったとき(=天地創造)、一番はじめにお造りになったのがだとされています。

天地創造については聖書に書かれているのでそちらの説明にうつりますが…
その前に、キリスト教の聖典である聖書そのものについても軽く触れておきたいと思います。

旧約聖書と新約聖書

聖書には旧約聖書と新約聖書があり、キリスト教はそのどちらもを聖典としています。
「約」というのは「約束」を指し、旧約は「古い約束」、新約は「新しい約束」という解釈だそうです。
わたしもまだ全編読破していないので、内容について非常にざっくりとした説明になりますが…

旧約聖書
ユダヤ教の聖典。
神さまによる天地創造から、最初の人間アダム&イヴの誕生と、彼らが犯した最初の罪。
その罪によって神さまと断絶されてしまった彼らがカイン&アベルを産み、イスラエル民族がどのように増えていったか、またどんな信仰をもって神さまと向き合っていたかを描く。
有名どころでは箱舟のノア、海を割って追っ手を振り切り十戒を授かったモーセ、彫刻にもなっている偉大な王ダビデ、その息子である賢王ソロモンなどが登場する。
神さまが人類に与えた掟についても細かく書かれているが、「人類の歴史 = 罪の歴史」と言わんばかりに、人類が(先に名前の挙がった人物でさえも)罪を犯したり、掟を破ったりしては窮地に陥り、神さまに救いを求めて立ち直らせてもらうものの、また掟を破り…ということが繰り返し描かれている。
神さまを讃美する数々の歌(詩)や多くの預言者も出てきており、「その罪のために神さまと断絶させられているイスラエル民族を救ってくれる救世主が、いつかきますよ」という約束がなされている。
新約聖書
三浦綾子も辟易したほど、序盤からおびただしいほどの人名が羅列されており、聖書ビギナーの出鼻をくじく。これはアダムから始まってイエスにつながる系譜であり、旧約聖書から読んでいると知っている名前が出てきて、「あ~! ○○した△△さん!」と整理できる(気がする)。
イエス・キリストの誕生の少し前から始まり、イエスの誕生・伝道・処刑→復活→弟子と交流したあと天に昇っていくまでの様子が書かれた、4パターンの福音書が冒頭を飾る。
ほか、イエス昇天後の弟子たちの布教活動、各地の教会とやりとりした手紙、襲い来る弾圧、それでも神さまへの信仰を捨てず殉教した人々…の様子が描かれ、ラストは世界の終末と神さまの救いを予言した『ヨハネの黙示録』で締めくくられている。
全体的に旧約聖書の内容を踏襲しており、「旧約聖書で言われていた救世主はイエス・キリストのことでした!」「イエス・キリストが人々の罪を背負って命を捧げたことを信じれば、誰でも死後は天国で幸せに暮らせます」という約束がなされている。

と、おおむねこのような感じです。
あの分厚い旧約&新約聖書をまとめるのはけっこう無理がありますね

聖書における「天地創造」と創造論

さて、それでは天地創造についてみてみましょう。

まずは旧約聖書をみてみます。
旧約聖書では、第1巻『創世記』にて天地創造の様子が描かれています。
「神さまが7日間で世界をお造りになった」というのは、わりと有名な話ではないでしょうか。
特に、第1章第1節の「はじめに神が天と地を創造された。」について、三浦綾子は『旧約聖書入門』において「この第1節の言葉を理解できる者は聖書の全体を理解できる、といわれている」と述べています。

神さまによる天地創造の概要は以下のとおりです。(太字は歌詞中に出てくるもの)

第一日:を造り、闇と分けた
第二日:大空(天)を造った
第三日:地と海を分け、植物(実のなる樹、草)を生えさせた
第四日:太陽、星を造った
第五日:海の生き物とを造った
第六日:地のを造り、魚・鳥・獣を治めさせるために人を造った
第七日:創造のためになさっていたすべてのわざを終えた

これらは神さまによって、一体どのようにして創られたのでしょう。
『創世記』第1章、創造1日目についての数節を見てみます。
(以下、当記事内の引用箇所はすべて、聖書新改訳2017より引用しています)

新約聖書『創世記』第1章
1:1 はじめに神が天と地を創造された。
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
1:3 神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。
1:4 神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
1:5 神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

いかがでしょう?
神さまが「光、あれ。」とおっしゃった、つまり言葉でもろもろをお造りになった、とされています。
そして「光を昼と名づけた」とあります。


新約聖書でも、この天地創造の場面がいかになされたか触れられています。
冒頭4つの福音書の4番目、『ヨハネの福音書』第1章の冒頭を以下に引用してみます。

新約聖書『ヨハネの福音書』第1章
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

1節では、「ことば」に言及されています。
歌詞中にも「神の言葉で造られしこの世界」とありますね!

「この方」というのは、人間界に生まれる前のイエス・キリストを指すそうです。新約聖書の中で、神さまイエス・キリスト聖霊はそれぞれ独立した存在のような表現で書かれていますが、それぞれ別の位格を持った同一の存在とみなされています(三位一体説

三浦綾子は『新約聖書入門』の中で、まさにこのヨハネの福音書の解説を通して、「ことば」を今わたしたちが日常的に使っている「言葉」としてとらえるのではなく、神さまの知恵を指していると述べています。

「言(ことば)」がギリシャ語の「ロゴス=知性、英知」を指すことからそう述べているのですが、言われてみればたしかに、わたしたちが普段口にしている日本語や英語などの言語(language)だとそのまま解釈するよりも、神さまの知恵によって世界が造られたと考えると、個人的に腑に落ちた感覚がありました。


神さまによって世界が造られたのだ! というと、「いやいやいや、そんな非科学的な話あるかいな」という意見が出てきます。
さらに、「宗教と科学は相反するものだ」ともよく言われますよね。

たしかに、人類の科学の進歩はめざましく、昔は「悪霊のしわざだ」「祟りじゃあ」とされていた病気も、医学の進歩によって原因が特定されたり、特効薬が開発されたりして、克服できるものが大幅に増えました。
三浦綾子が長いこと患っていた肺結核も、今は薬があり、適切な治療を受ければ高い確率で完治するため、死の病と怖れられていたのはすでに過去の話です。

医学の分野だけではなく、数学や天文学、物理学などなど…科学のさまざまな分野において研究・開発が進み、大昔では考えも及ばなかったことが、現代の世界では数多く実現されています。
それは間違いなく、長い時間をかけて、世界中の天才たちがあれこれ考え、試行し、たゆまぬ努力によってコツコツと成果を積み上げてきた結果です。

かといって、「つまり人間が一番えらくてすごいんだ!」とか「神さま? いろいろ解明されてきたこの科学の時代で、子どもだましじゃあるまいに笑」とすぐに結論づけてしまうのには、わたしはちょっと賛成しかねます。

個人的な感覚なのですが、
「人類がまだ解明できていない謎もすべてひっくるめて神さまが世界をお創りになった」
そして
「人類はこれまで得た知識を使って、この謎に満ち満ちた世界の地図を少しずつ解き明かしている途中」
なのではないかな~と考えています。


最近、わたしがこのことを実感したたとえ話です。
昨年末にインフルエンザにかかってしまい、39度以上の高熱を出してしまいました。

ヒト・ヒト間で感染するインフルエンザは、日本においては1918~1921(大正7~10)の3年間に、スペイン風邪(のちにインフルエンザA型と判明)として流行したそうですが、ワクチンなど治療法が確立されたのは1960年代になってからだそうです。
(参考:健栄製薬HP『【医師監修】インフルエンザの始まりはいつ?歴史から学ぶウイルスの特徴』

もし、わたしが1920年ごろに生まれていて、スペイン風邪にかかって高熱にうなされたとしても、病院に行っても原因がわからず、最悪そのまま死んでいたかもしれません。
この200年もの間に原因が解明され、検査で識別できるようになり、特効薬も開発されて…さらに言えば物流や建築など他の分野の発達などもあり、生活水準が飛躍的によくなったため、栄養をしっかり摂って快適な環境で安静にでき、もとどおり回復することができたのだと思っています。

インフルエンザを例に出しましたが、これを先ほど述べた創造論についての個人的な感覚にあてはめると、
「人類がインフルエンザを克服したのはたしかな事実だけれど、克服するまでの手立て(科学の法則など、この世界の仕組みそのものも指す)もすべて含めて神さまによって用意されていたのでは?」
と表現したいと思います。

正直、これだけでは伝わりにくいと思うので補足すると…科学と宗教は対立すると思われていながら、歴史上には科学者かつ敬虔なキリスト教の信者だった人たちもいました。
たとえば、ニュートン、ガリレオ・ガリレイ、ケプラー、メンデル、ファラデー、マクスウェルなど。
特にガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたことでカトリック教会から異端だとみなされたため、反宗教のイメージが先行しがちですが、最期まで信仰は捨てなかったそうです。

歴史に名を残す天才たちですら、さまざまな法則を発見し、技術の発展に貢献するにつけ「この世界を造った神さまはどえらい方だなあ」と深くこうべを垂れていたのですから、高校1年の化学にて、序盤も序盤のモル(mol)で挫折したわたしみたいなザコが「人類すごい! 勝ち確や!!」「もう人類に怖いものなんてないべ!」とドヤることは到底できないな、と思っています笑

もちろん、世の中にはまだ克服できない病気や、解き明かされていないこと、不思議な現象がたくさんあります。
それらについて「神さまがお造りになったことだから、理解の範疇を超えているよ」と即座に片付けてしまったら、そこで歩みを止めてしまうことになります。

先述したように、わたしは謎の解明や技術の発展に寄与することはできないので、それらに携わってきた(携わっている)方々を尊敬してやみません。
と同時に、発展した技術が誤った使い方をされて、他の誰かの命や尊厳をおびやかすことのないようにと、切に願うばかりです。

そしてまた、これらの見解をもって「ね! 神さまは絶対にいるんです!!」と強く主張したいわけではなく、「この世の法則もすべて含めて世界を造ってしまうのなんて、神さまの知恵でもないと難しくない?」と感じているところです。
そして隙あらば、「インフル苦しかったけど治ってよかった~、間違いなく自分一人の力ではなかったな、はあ~とってもありがたいなあ」と、感謝の種にしてしまっています笑


創造論について序盤から個人的な見解をかっ飛ばしてしまいましたが、まとめると、キリスト教の教義では
「最初に神さまがことば(=知恵)を用いてこの世界をお造りになったときに、一番はじめに造られたのが“”」
ということになります。
これは、そのまま歌詞としても採用されていますね!

神さまという”光”

創世記からは、主にのもつ自然現象あるいは物理現象としての側面を感じました。
「物体を照らし、反射された光を目で受容すると物が見える」もしくは「太陽が発する光と、それが地上に降り注ぐ時間帯(=昼)」という意味でのです。

それだけではなく、聖書の中では、神さまとイエス・キリストの存在そのものを「光」と表現している箇所がたくさん出てきます。

新約聖書『ヨハネの福音書』第1章
(※先ほどの天地創造の場面の続きです)
1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
新約聖書『ヨハネの福音書』第8章12節
8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
新約聖書『ヨハネの手紙 第一』第1章5節
1:5 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇がまったくないということです。

これらの箇所ではいずれも、「神さま=光」とされ、闇の性質は一切持たず、闇とは共存しない存在であることが示唆されています。

また、キリスト教における神さまの性質は、以下のように解釈されています。

・時間を超越した、不変の存在である
・恵みとあわれみ、慈しみに満ちた存在である
・全てをご存じであり、正しいことをなさる存在である

このことから、神さまの持つ正しさ・きよさ・完全さが「」にたとえられている、と捉えることができます。
ではまず、「光」と対立する「」とは何をさすのかを見ていきましょう。

人間を覆う、おそろしい”闇”

「ⅰ 春を待つ」の考察記事でご紹介した、三浦綾子の自伝小説『道ありき』 『この土の器をも』
こちらに、3作目の『光あるうちに 道ありき 信仰入門編』を加えて、『道ありき』三部作と呼ばれています。

わたしは以前、自分のXアカウントで、この『光あるうちに』を紹介したことがあります。
「#あなたが一番怖ろしかった本」というハッシュタグをつけて。

この本は、前2作の自伝的な内容とは少し毛色が違って、「信仰入門編」とあるとおり、キリスト教になじみが薄い読者に向けて、雑誌に1年間連載されたエッセイを一冊にまとめたものとなっています。

組曲初演の取り組みの中で、『道ありき』→『この土の器をも』と読んでいき、いくぜ3作目! という勢いのままこの本を読んだわたしを迎えた、人生で一番おそろしかったこととは・・・

人間のもつ罪

まず1つめのおそろしポイントは、「人間の持つ罪の性質」に改めて気づかされたことでした。

キリスト教では、原罪と言います。
旧約聖書で天地創造がなされたあと、最初に神さまに造られた人間であるアダムとイヴは、悪魔にそそのかされて、神さまの言いつけを破って知恵の実を食べてしまい、罪を負ってしまいました。
それ以降、彼らの子孫である人類ももれなく原罪を負っているとされ、キリスト教の根幹をなす教えの1つとなっています。

平気で嘘をつく心。見栄をはりたい、周りからもてはやされたい心。
他人を見下してマウントをとったり、憎んだり、差別したり、はたまた妬んだりする心。
他人の失敗は鬼の首を取ったように責めるのに、自分が同じ失敗をしても非を認めず、開き直ったり言い訳したりする姿勢。
自分がされたら嫌なことを、他人には平気で行う浅ましさ。

さらに怖ろしいのは、これらについて自覚すらしていないことです。
三浦綾子は、『光あるうちに』の中で「自分の罪を自覚していないことこそが最大の罪だ」と語っています。


みなさんは、小さい頃にまわりの大人から「悪いことをしたら地獄に落ちるよ」と教えられたことはありませんか?
ウソをついたり、他人を傷つけたりすると、死んだあとに地獄で苦しみ続けることになるからやめなさいよ、と教えられた方が多いと思います。
風濤社出版の『地獄』という絵本では、仏教にもとづく「地獄」がこれでもかというほどグロテスクな絵で表現されています。これも普通にトラウマ本です

幼いわたしも震え上がって(笑)、「もう悪いことをするのはやめよう」と決意したはいいものの、長続きするはずもなく・・・
そのうち、「自分だけじゃなくてみんなそうしているから」「生きていくためには必要なことだから」などとうそぶき、まったく反省しなくなってしまいました。

やがて、組曲初演をきっかけにキリスト教を学んでいくうちに、人間のもつ罪の性質と、「人間の力だけで罪を克服することはできない」という教えを知り、痛感しました。
たしかに、今まで何度も「もう悪いことはやめよう」と決意したとしても、またすぐに「ウソついて地獄落ちるんならみんな地獄行きだよね笑」と、開き直ってしまっていたなと…。


そして、このことを見透かすように、新約聖書の『ローマ人への手紙』には、このように書いてあります。

新約聖書『ローマ人への手紙』第3章10節
3:10 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。

「義人」とは、清く正しい人といった意味合いだそうです。
個人的には、こちらの聖句が『塩狩峠』に引用されて語られているのが強く印象に残っています。

主人公の信夫は、大人になってからイエス・キリストへの信仰を持ち始めましたが、成績優秀で、悪いこともせずまっとうに生きてきた自分は正しい人間だと思っており、自分の持つ罪の性質にはピンときていませんでした。
ある日、偶然出会った伊木という牧師にそのことを打ち明けた際、「聖書に書いてあることを何か1つでも徹底してやってみてごらんなさい。できないでしょうから」と言われます。
そこで信夫は「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」という聖句を心がけ、日常生活で徹底して行おうと決めました。

こちらの聖句は、新約聖書『ルカの福音書』の中に「善きサマリア人」というたとえ話とともに載っています。
強盗に襲われ、身ぐるみをはがされて傷ついた旅人が道ばたに倒れているのを、祭司とレビ人は見て見ぬふりをしてそそくさと通り過ぎたにもかかわらず、サマリア人は見返りも求めず、自腹を切って見ず知らずの旅人を手厚く助けました。
さて、この旅人の善き隣人とは誰なのでしょう? というお話です。

ちょうどその頃、信夫の同僚の三堀という男が、他人の給料を盗んでしまうという事件が起こりました。
そこで信夫は「傷ついた三堀に寄り添おう、あのサマリア人のように」と三堀を励まし、上司に謝るよう説得し、自らも三堀と共に謝って、なんとか懲罰を軽くしてもらえないかと頼み込みます。
その結果、三堀は解雇をまぬがれ、上司とともに札幌から旭川へ転勤することとなりました。
そしてなんと、三堀をかばった人間性を買われて(ある種の連帯責任とも取れそうですが)、信夫も彼らとともに旭川へ転勤するよう声をかけられます。

驚く信夫ですが、「三堀の善き隣人としての姿勢を徹底しなければ」と辞令を呑み、異動することにしました。
しかし異動後、当の三堀からは感謝されるどころか「監視するためについてきたんだろう」「バカにしやがって」などと口汚く罵られてしまいます。
そこで信夫は、無意識に三堀を見下していたことや、感謝や賞賛などの見返りを期待して善行をしていたこと、そしてそれらが期待通りにならず腹を立てた自分の傲慢さ、すなわち自分の罪の性質に気づいたのでした。

(信夫サイドの罪に言及しましたが、三堀のほうにも、泥棒をしてしまった出来心はもちろん、なんとか首をつないでくれた信夫に対して負い目を感じてしまって、信夫の本心を邪推して素直に感謝できないという罪の性質を見て取ることができます。人間の心って複雑ですね…)


人間は、よいことをするときでさえ、よからぬことを考えてしまうことはよ~くわかりました。
でも…
「下心があっても、バレなきゃセーフセーフ笑」
「悪いことを考えても、思うだけで実行しないならいいじゃん?」

と言い訳を重ねるわたしに、さらなる追い打ちがかかります。

新約聖書『マタイの福音書』に、このような聖句が載っています。これはイエス・キリストが群衆の前で語ったとされる言葉です。心して読んでください。

新約聖書『マタイの福音書』第5章
5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
~中略~
5:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。

いかがでしょう。後半のほうは、わりと有名な聖句なのではないでしょうか。
なお、「兄弟」は実の兄弟のみを指すのではなく、自分以外の人を指します。)

こう説かれているのは、おそらく、後ろ暗いことをたとえ心の中で思うだけだとしても、無意識に仕草や語調など、態度に出てしまうためなのではないか、とわたしは考えました。
殺人のような重大な犯罪なら、実行するのとしないのとでは0か100か大きな違いがあるのでは? と思いがちですが…

たとえば、殺したいほど嫌いな相手がいるとして、その気持ちを100%隠し通せる人って、はたしてどれくらいいるのでしょう。
「あなたが嫌いです」と相手にハッキリ言わなくとも、トゲトゲした語調や態度で接してしまったり、それこそ「本人にバレなきゃいいっしょ」と陰口を言ってしまったり…
そうした態度や、周囲も巻き込んだ関係から、本人にも「嫌われている」という気持ちが伝わってしまったら、ダメージを与えてしまいかねません。

それが即・殺人となるかは判断が難しいでしょうが、そのダメージがじわじわと相手の命を奪う可能性はゼロではないでしょう。
相手を傷つける方法は、刃物や銃などの凶器を使うだけとは限らないのではないか、とわたしは思います。

実行に移さずとも、心の中で思うこともダメなら、もう本当にお手上げですよね。
義人なんて一人もいないよお…。


さて、人の持つ罪の性質について嫌というほど突きつけられた感じですが、その結果、どうなってしまうのでしょうか。
さきほど、仏教における地獄について言及しましたが、キリスト教でも死後の沙汰について触れられています。

新約聖書『ローマ人への手紙』第6章23節
6:23 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠のいのちです。

ここでいう「死」とは、肉体の死を迎えたあとの魂の滅びを指すそうです。
聖書の中では、先ほどの聖句にも出てきた「ゲヘナ」や「ハデス」「シェオル」などの単語が、「地獄」「黄泉」「冥府」のような意味合いで使われています。

上記をまとめると、キリスト教では

・人間は罪によって神さまから断絶させられている。
・人間は罪を克服することができないので、罪の報酬=魂の滅びを迎えるしかない。

とされています。
罪の問題は自力ではどうにもできないがゆえに、三浦綾子は「罪とは、ゆるしてもらうより仕方のないものだ」と述べており、たびたび作品の中でも言及しています。

人間を覆う1つめの闇 = 人間の罪深さ

隣り合わせている虚無

さて、再び歌詞についてみてみます。
喜びやほめたたえの感情で満ちあふれたこの曲の中でも、歌詞・曲調ともに少し翳りが差す部分があることに気づきました。

「傷が痛み 虚無に怯え 病に悩み 望みを失くし」

ここでは、人間が生きる上でぶち当たる困難や苦悩が列挙されています。
曲の中では、これらのことにぶち当たって「生きることさえやめようとしてしまうわたし」を、神さまがそばで見ておられる…と続きます。

この詞を最初に読んだときに、「傷が痛み」「病に悩み」「望みを失くし」はどういう状況かすぐにピンときたのですが、

「虚無に怯え」

って一体どういうことなんだろう?? と疑問に思いました。


虚無。

「虚しい」「無い」を並べたこの単語は、文字通り「なにもないこと」を指します。

「何もない」とは、「満たされていない」ととらえることができそうですが、三浦綾子の作品の中では主に
「人はなぜ生きるのか」
「人はどう生きればよいのか」
そこから派生して「人を満たすものは何か」
という問いに集約するかたちで、人間の抱える虚無の問題を投げかけています。


虚無のことを考えるとき、強く思い出されるのは『氷点』に出てくる正木次郎のエピソードです。
はじめに断っておくと、正木次郎は『氷点』のストーリーの根幹には一切関わってきません。
ほんの数ページしか登場しない、言ってしまえば端役にしか過ぎない存在です。

正木次郎は、主人公である医師・辻口啓造の患者の1人として登場します。
正木は28歳の青年で、銀行員としてバリバリ働いていましたが、軽い肺結核にかかってしまい、休職して辻口医院に入院することになりました。
復職を目指して2年ほど真剣に治療に取り組み、順調に快復して、退院を目前に控えていた正木ですが…なんとある日、突如として自分の命を絶ってしまいます。

実は、その直前、正木は辻口との診察の中で、胸のうちを吐露していました。
「復帰できるよう必死に頑張っていたけど、自分がいなくても銀行は繁盛しているし、世界は滞りなく回っている。自分の存在価値など無いことをまざまざと思い知らされた」

彼は、最初にお断りしたとおり、ストーリーには一切関わりを持ちません。
しかし、人間が抱える虚無について問題提起する役割を担って登場させられた(とも言うべき)彼の存在感は、読み終えたあとも、まるでノドに刺さった魚の小骨のように、読者の心にもやもやとした感触を残していきます。
そして、妙にリアリティを感じさせるのは、綾子の療養時代の実在の人物がモデルとなっているからです。

ひとつの組織の中で働いていると、意外とこういった事例はありふれていますよね。
都合により組織の中で欠員が生じてしまった場合、代わりの人を入れたり、まわりがその穴を埋めたりしながら、なんとかかんとか運営していくことが多いと思います。
「一人欠けてしまったばっかりに破綻してしまった」という例もあるにはあると思いますが、替えがきかないと言われがちな芸能界ですら代役を立てて続くのですから、かなりのレアケースなのではないでしょうか。

おそらく正木は、仕事で業績を残すことを生きがいとし、それがみずからの存在証明になるとして頑張ってきたのでしょう。
働いて働いて働いて働いて働いてまいります、と言わんばかりに働いて(!)、業績を残し、「職場にいなくてはならない存在だ」と頼られ、認められることをやりがいとしていたのだと考えられます。

しかし、人間なので病気にもなります。
自分の意志とは裏腹に、突然働けなくなることもあります。
正木の場合、体のほうは復帰できるほどよくなっていました。
ですが、「自分がいなくても職場は、世界は何事もなく回る」という事実に、心を折られてしまったのです。
病気による身体的なダメージもあったと思いますが、それよりも「自分の存在価値がないと思い知らされたこと = 虚無」による精神的なダメージに飲み込まれて、みずから死を選んでしまったのでした。


そしてもうひとつ。三浦(当時は旧姓の堀田)綾子自身も、かつて虚無に打ちひしがれた経験があります。

綾子は第二次世界大戦下、敗戦までの7年間、小学校の代用教員として働いていました。
当時はゴリゴリの軍国主義であり、綾子も「お国と天皇陛下のために戦うことが日本国民としての名誉なのですよ」と誠心誠意子どもたちに教え込んでいたのです。

しかし、日本は敗戦を迎えてしまいます。
綾子を襲ったのは、無敵だと信じていた日本が負けたショックと、その後介入してきたGHQによる教育方針の大転換でした。
軍国教育は撤廃され、それにともなって、教科書に記載されている軍国主義的な内容をすべて墨で塗りつぶしなさい、という命令が出たのです。
子どもたち自身に、教科書に墨を塗らせながら、綾子は耐えがたい屈辱感をおぼえていました。

今までの努力はなんだったのか。
今まで信じてきたことは、間違いだったのか。

綾子も、正木と同じように、今までやりがいをもって必死に頑張ってきたことが無意味だったのではないかと思い知らされて、心がぽっきり折れてしまったのでした。

しかも綾子の場合は、無意味だけだったのならまだしも、子どもたちという相手がいたという事実に激しく追いつめられていました。
教育方針が180度変わってしまった今、これまで教えてきたことか、これから教えることか、どちらかが「正しい」ならば、もう一方は必然的に「間違い」となります。

これまでが正しかったのなら、これからは間違いを教えていかねばならない。
これまでが間違いだったのなら、子どもたちの貴重な数年間を奪ってきた過ちについて、手をついて詫びるだけでは到底すまされない。

虚無感に打ちひしがれながら「もう自分には教壇に立つ資格がない」と退職を決意した綾子は、傷も癒えないまま二重婚約をして、病に倒れ、命を捨てようとします…。


正木次郎も綾子も、お仕事にまつわる喪失感・虚無感に襲われたかたちでしたが、冷静に考えると、これってお仕事以外にも容易に起こりうることではないかなと思うのです。

心のよりどころ・生きがいは、人によってさまざまです。
仕事や趣味に打ち込むこと。
気心の知れた人と一緒に時間を過ごすこと。
子育てをしたり、まわりの人やペットのお世話をしたりすること。
有名人の推し活をすること(!)

これらを楽しんだり、生活の潤いを得たりすることは、もちろん否定しません。
むしろ、これらを通して「推しが尊いからツラい仕事も頑張れる・・・!」といったように、日々の活力になっていることも多いでしょう。

しかし、永遠に変わらないものは、世の中のどこを見渡しても、見つけることができません。
諸行無常、盛者必衰と言われるように、自分もまわりも絶えず変わっていくからです。
それゆえ、状況が変わって、これまでの生きがいや打ち込んできたことを失ってしまったときに、残念ながら虚無に飲み込まれてしまう可能性が高いのではないか、と考えられます。

たとえば、わたしの趣味の1つに、高校時代から続けている合唱があります。
今も、バーズをはじめとして複数の団体に所属して楽しく歌っているのですが、この先何かがきっかけで合唱ができなくなる可能性だって十分にあるのです。
それは病気やケガなどの突発的な要因かもしれないし、体の衰えだったり、おかれている環境の変化だったりするかもしれません。

そこで、もし「合唱ができない生活なんて考えられない!」と思い込んでいたとしたら、それができなくなった途端、正木のように「自分が生きる意味を失ってしまった」と、虚無に飲み込まれてしまうかもしれません。
あなおそろしや…


さて、聖書においては、旧約聖書『伝道者の書』に、虚無について書かれているところがあります。

旧約聖書『伝道者の書』第1章
1:1 エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。
1:2 くうくう伝道者は言う。空の空。すべては空。
1:3 日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。
~中略~
1:14 私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべてはむなしく、風を追うようなものだ。
~中略~
1:18 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。
旧約聖書『伝道者の書』第2章
2:1 私は心の中で言った。
「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」
しかし、これもまた、なんと空しいことか。
2:2 笑いか。私は言う。それは狂気だ。
快楽か。それがいったい何だろう。

ここでいう「伝道者」とは、古代イスラエル王ダビデの息子・ソロモンを指します。
ソロモンは、王として人々を治めるための知恵を神さまに請い、与えられたため「賢王」とも言われています。
ソロモンの統治下でイスラエルは栄えていき、ソロモンは莫大な富と、地上のありとあらゆる娯楽を享受しましたが、そんな彼が上記の言葉を残したと思うと妙な説得力があるなあ・・・と思います。

人それぞれに「生きがい」がありますが、それらがもろくも崩れ去ったとき、わたしたちを襲うものは虚無です。
今はまだ気づいていないとしても、たしかに虚無はわたしたちのすぐ隣でぽっかり口を開けているのではないでしょうか。

人間を覆う2つめの闇 = 虚無

人間の弱さと、弱さゆえの過ち

3つめのおそろしポイントは「人間の弱さ」です。

まず、人間は肉体的に弱い存在です。
自然の中で暮らしている動物と違って、雨風がしのげる場所でないと生き延びることができません。
力も弱く、道具に頼りきって生活しています。
北海道にいると特に強く感じるのですが、真冬に身1つで外に放り出されたら、なすすべなくたちまち凍え死んでしまうでしょう。

そして何より、精神的に弱い存在でもあります。
療養生活を通して数多くの人々と出会い、また数多く人々の人生相談に乗ってきた三浦綾子が、エッセイの中で「人間は弱い存在である」と述べています。

上述した「人間の持つ罪の性質」にも通じる話ですが、

・自己中心的に物事をとらえて判断してしまうので、トラブルのきっかけになったり、悩みを抱えたりしやすいということ。
・そのときの体調やメンタルの波に思考が左右されてしまいがちなこと。
・他人からかけられた言葉や、外部からの情報(たとえば占いのような根拠の乏しいものでも)に一喜一憂してしまうこと。
・未来を見通す力も、物事を思い通りに変える力も持っていないこと。

個人差もあるでしょうが、わたし自身は思い当たる節が多すぎて、「自分はなんて弱い存在なんだ。なめくじのフィジカルと、おとうふのメンタルだなあ」と感じざるをえません。
(むしろ、なめくじとおとうふのほうが強い説)


また、戦争を経験した綾子は、「人は、権威のある者から命令が下されれば、人とは思えぬような残虐なふるまいができる」という人間の弱さも、多くの著作を通して描いています。
命令に従わなければ逆に自分の命がおびやかされると感じたとき、人間はどこまでも残虐になれる生き物だということを、綾子は戦争で痛感していました。

有名な話だと、ナチス・ドイツ統治下におけるユダヤ人大量虐殺があります。
アドルフ・ヒトラーは、それまで分かれていた首相と大統領という2つの地位をあわせた総統として絶大な権力を握り、国ぐるみでユダヤ人を捕え、過酷な労働を強制したり、有無を言わさず虐殺したりしていました。

2023年に公開された映画『関心領域 The Zone of Interest』(ジョナサン・グレイザー監督)では、アウシュビッツ強制収容所の所長だったルドルフ・ヘスという人物に焦点をあてて当時の様子が描かれています。
映画の中で、ヘス含む軍の幹部たちが集まって「いかに効率的にユダヤ人を殺し、いかに効率的に遺体を処分するか」と会議で大真面目に話し合うシーンがあります。
人を人とも思わない鬼畜の所業。これが実際に行われていたことだと思うと、ものすごくゾッとしました。

軍人だけではなく、収容所のすぐ隣に豪邸を建てて暮らしていたヘスの家族についても同様でした。
壁一枚隔てた先から銃声や看守の怒号、番犬が吠えたてる声、囚人の悲鳴などが聞こえてきたり、遺体を燃やす嫌な臭いが絶えず流れてきたりしていても、まったく意に介さないどころか、小さな子どもですら「お前たち(ユダヤ人)が悪いんだろ」と毒づくなど、人権感覚が完全にマヒしきっている描写があります。
(この映画、直接的な描写はありませんがかなり精神的にきます。興味のある方は見てみてください)

「自分さえ安全なら、他人がどうなろうと知ったことではない」「上からの命令なら(=自分に責任が生じないなら)なんでもする」という話は、特に戦時下においては、枚挙に暇がありません。
戦争絡みの話については「ⅱ 時代を見つめる」の記事にて掘り下げる予定ですが、綾子は「わたしの作品で戦争の影が落ちていないものはひとつもない」と語っています。


「そうはいっても戦時中の話でしょう? 今の日本ではそんなことないよ」
と、思ってしまいがちなのですが、戦争でなくても、非常事態において人間の弱さが出てしまうのは、昔から変わっていないのではないでしょうか。

記憶に新しい非常事態といえば、日本においては2019(令和元)末~2020(令和2)頭ごろから始まった新型コロナウイルス感染症のパンデミックを思い出します。
2023(令和5)の5月に新型コロナの扱いが5類感染症に引き下げられるまでの約3年間、本当にさまざまなことがありました(遠い目)

特に初期のころ、新型コロナがまだどんな病気かわかっていなかったときが顕著でしたが、感染者に対する差別や誹謗中傷、ときには迫害ともとれる行動が問題になっていました。
コロナ禍では不要不急の外出を控えるよう政府から呼びかけられていましたが、感染しているかどうかに関わらず、外出する人や違う地域から来た人を罵倒する、いわゆる自粛警察と呼ばれる人たちが出現しました。

また、感染予防でマスクの需要が一気に高まり、コロナ禍がいつまで続くかわからない不安から必要以上にマスクを買いあさった人が多く、しばらく品薄状態になりました。
のみならず、マスクをはじめとした消耗品が手に入らない人に対して高額で売りつけて金もうけをたくらむ人も現れ、モラルが問われたこともありました。
さらに、マスクの品薄に乗じて「次はトイレットペーパーも品薄になるらしいぞ」というデマが横行し、トイレットペーパーを奪い合う事態も起こりました。

未知の感染症への恐怖が引き金となって、自分の意にそぐわない行動をとる人を攻撃したり、外からの情報に踊らされたり、自分さえよければ他人は困ってもよいと傍若無人に振るまったり…
コロナ禍を例に出しましたが、弱さゆえに過ちを犯してしまう姿には、数千年前の旧約聖書の時代から変わらない、まさしく人間の本質がありありと現れていたのではないでしょうか。

人間を覆う3つめの闇 = 人間の弱さ

闇に打ち勝つ”光”

『光あるうちに』を読み進めるうち、上述の「人間をとりまく闇」を真正面からつきつけられて、「とんでもない本を手に取ってしまった…」と後悔すらおぼえました。
闇については自覚も実感もあるものの、取れる手立てがなく八方塞がりだ・・・という感覚に陥ってしまったのです。

では、人間はこれらの闇をどう克服すればよいのでしょうか。

三浦綾子は、同著の中で
「常に揺らいでいて弱い人間は、揺らがなくて強いものを頼るべきだ」
と述べています。

その時々で変わりやすく、物事の認知能力にも、できることにも限界があり、自分を中心に判断して過ちを犯す人間とは違う存在・・・
常に不変であり、すべてをご存じで、すごい力を持ち、正しいことをなさるお方、つまり神さまを真に頼るべきだと綾子はたびたび著書の中で説いています。

では、目で見ることも、声を聞くこともできない神さまのが一体どのように人間を照らしておられるのかを考えてみます!

真理という”光”

これまでみてきたような、罪、虚無、病、傷、弱さ。
聖書の中ではよく盲目と表現されるのですが、このような状態の人々をイエス・キリストが癒し、正すという箇所が聖書には複数あります。

盲目といえば、新約聖書『ヨハネの福音書』の中には、イエスが身体的に盲目な人の目を治すという奇跡をおこなったと記されています。
イエスと弟子たちが道端で盲目の人を見かけたとき、弟子たちがイエスに「あの人の目が見えないのは、あの人か、それともあの人の両親が罪を犯したからですか?」と聞きます。
今でもわたしたちは、何かつらい目に遭ったとき、「バチがあたったんだろうか」「日ごろの行いが…」などと、つい因果関係を求めてしまいますよね。
(にしても、この質問はノンデリすぎやしないか・・・)

三浦綾子もまた、闘病中、人々の心ない言葉にたくさん傷つけられてきたと『新約聖書入門』にて述べています。
彼女自身、肺結核で長く臥せっていたとき、お見舞いにきた人たちから、やれ「バチが当たったから」だの「先祖が罪を犯した結果」だのと、とんだ見舞いの言葉を投げつけられたとのこと・・・。


この災いと行いの因果関係について、強く印象に残っている三浦作品の場面をご紹介します
(※胸糞注意!)

十勝岳の噴火を描いた『泥流地帯』にて、噴火によって144名もの尊い命が奪われ、それまで必死に開拓してきた土地もめちゃくちゃになってしまうなど、甚大な被害をこうむった後の場面です。
主人公の耕作が住んでいた集落が被害に遭い、耕作もまた家族を亡くし、悲しみに暮れているとき、被害に遭わなかった集落の人が「わたしたちは日ごろの行いがよかったから無事だったんだね~」と言っているのを聞くのです。

・・・・・・言葉にならない。
被害に遭った人たちがどんな思いをするか、想像しただけで情緒がぐちゃぐちゃになります。
しかもしかも、発言した人は耕作の姉・富の姑にあたる女性で、富は嫁いでからこの姑にいびられて苦労したあげく、なんと噴火当日も山頂付近で働いていて、亡くなってしまったのです!
そんな人に「日ごろの行いがよかったから無事だった」と言われようものなら、わたしならその場で激昂して相手をどうにかしてしまいそうです・・・!

さらなる胸糞話ですが、この姑、「噴火で息子夫婦を亡くしたってことは弔慰金も2人分もらえるんかな~」と、なんと通夜の前に気にしていたという外道でもあります…こういうジコチューに限って、自分がひどい目にあったときはギャアギャア騒ぐくせに人のことは(以下、罵詈雑言の嵐)

因果関係、特に行いが悪かったから災いが起こったというマイナス面に関して、そもそも災いのすべてに因果関係があるのかどうかを確かめることはできません。
(「不注意で事故を起こした」「歯磨きをさぼって虫歯になった」など、因果関係が比較的明確な場合はさておき)
そして、今後の行動を改善していく材料にこそすれ、自分を責める材料にする必要はないですし、ましてや決して他人にかけるような言葉ではないと、個人的に思うところです。


話を再び聖書に戻します。
弟子のノンデリな質問に対し、イエスは「罪を犯したのはこの人でも、この人の両親でもない。ただ神のみわざがこの人にあらわれるためです」と答えます。

行いと災いの因果関係をハッキリと否定し、そればかりか「神に祝福されるためです」と断言したイエスの言葉に、三浦綾子は同著の中で「まさしく闇の中にが差したような感覚で、どんなに慰められたかわからない」と述べています。

きっと、今まで心ない言葉をかけられつづけてきたであろう盲目の人も、このイエスの言葉に驚き、慰められたのでしょう。
そうでなければ、顔も見えぬ初対面の男の人に塗られたまぶたの泥を、その男の言いつけどおりに、目が見えないなか苦労しながら離れたシロアムの池まで行って洗い流そうなどとは考えなかったはずです。
実は、この泥はイエスが地面に吐いたつばでこねられたものであり、言いつけどおりにシロアムの池でまぶたの泥を洗い流したところ、目が見えるようになったそうです。

その奇跡を目の当たりにし、どやどやと質問攻めにしてきたパリサイ人たちとイエスとのやりとりが、こちらの聖句です。
パリサイ人とは、旧約聖書にてモーセが神さまから授かった律法を厳格に守る人たちです。新約聖書においては、イエスを神の子と認めず、ボロを出させて処刑してしまおうと、無理難題をふっかけてくることが多い印象です)

新約聖書『ヨハネの福音書』第9章
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた者たちが、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。

「見える者が盲目となるためです」というのは、文字どおり「今、目が見えている人の目が本当に見えなくなる」という意味ではありません(イエスに目つぶしされるわけではない)。
「今、自分が『見えている=正しい』と思い込んでいる人が、実は『(霊的に)盲目である=罪深い』と、イエスによって暴かれる」ため、と解釈できるそうです。

「人間を覆う闇」の「罪」のところでも触れましたが、三浦綾子は「自分の罪を自覚しないことこそが一番の罪だ」と述べています。
「私たちは見える」と思っている…すなわち「自分のしていることは正しい」「自分には力があるのだから、神になど頼る必要はない」という思い込みが、イエスというによって照らされ、暴かれるのだと思いました。
(映画泥棒がサーチライトにカッ!!と照らされてへなへなになるイメージ)

そうであるならば、逆に「目の見えない者が見えるようになり、」とは、身体的な盲目状態が治るというそのままの意味ではなく、
「自分は『罪深く、無力だ』と思っている人が、イエスから与えられたみことばと教えによってが与えられ、目が開き、希望が見えるようになるため」
とも解釈できるのではないでしょうか。


聖書には、旧約・新約の全編にわたって、たくさんの教えやみことばが載っています。
解釈が難しいところがあったり、教派によるとらえ方の違いがあったりすると思いますが、クリスチャンはこれらの教えやみことばを真理だと信じ、従って生きています。

キリスト教の根幹をなす主な教えについては別記事で触れますが、それ以外の細かい教えやみことばについて、先ほどの三浦綾子のように「わたしはこの聖句に救われた!!」ということが、人それぞれにあるそうです。
わたしも、まだ聖書を読破してはいないのですが、読んで心がフッと軽くなった聖句をご紹介します!
同じようなことが複数箇所に書かれているので、主なものを引用します)

旧約聖書『箴言』第14章29節
14:29 怒りを遅くする者には豊かな英知がある。気の短い者は愚かさを増す。
新約聖書『ヤコブの手紙』第1章
1:19 私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないのです。

わたしは昔から、自分が嫌な思いをしたときにはっきりと伝えられない性格です。
誰かに嫌なことを言われたり、されたりしたときに、すぐにその場で怒ったり言い返したりすることが、いまだに苦手です。
身内である母にすら「めったに怒らんよね」と言われたこともあり、確かに人より怒りにくいのだろうな~とは思っています(鈍感なだけかも・・・?)

かといって、まったく腹が立たないわけではなく、その場で言い返せなかったり、あとで思い返してイライラしたりすることもそれなりにあります。
ただ、思い返す中で「自分も○○しちゃうことあるしな~/今後しちゃうかもしれないしな~」とコネコネしているうちに、伝えることもなく、時間とともに意識の下に沈んでいったり、ものによっては遺恨として残したりしてしまいます。
運がよければ伝えるチャンスが来ることもありますが、上記のようにいろいろ考えた後なので、「おんどれやあ! 怒っとるんじゃこっちは!!」と糾弾するようなことはできず、弱い語調でヘラヘラ~っとしながら、もにょもにょ・・・と伝えることしかできません。

不当と思えるような扱いをされても、波風を立てたくなくて何も言わない・・・
仮に怒って、それが伝わったとて、その後どう付き合っていけばいいかわからない…
なら何も言わないほうがマシかあ…

そうやって生きているうちに、そもそも怒り方がわからなくなってしまいました。
あまりにひどいことについては衝動的にその場で怒ったこともありますが、言葉より先に涙が出てきてしまうので、しっかり伝えることができないし、みっともない思いはしたくない…と、自分の気持ちにフタをしてしまってきたのです。

そしてわたしは、この「しっかり怒れない」という性格を、自分の欠点だと思っていました。
嫌な思いをしたなら、ちゃんと伝えなきゃ、また同じことをされるかもしれない。
でも、それができない。
できないくせに、自分の中ではイライラしちゃう。根に持っちゃう。

解決しなければ生きていけないほどの重大な悩みではないし、こればっかりは性格だからどうすることもできないか~…とあきらめていたのですが、聖書の中で「怒らない人は賢い」と説かれているのを読んで、えっ!?!?!!? と非常に驚いたのです。

自分が賢いかどうかはさておき…「人の怒りは神の義を実現しない」については、こちら『天北原野』について書いた記事でも触れましたが、怒りのままに行動することがさらなる悲劇を生む、ということを多くの三浦作品で読みました。
また、自分の経験や身の回りの出来事から「たしかにそうかも!」と実感したのです。

よくよく考えたら、怒りって、自分にふりかかってきたものならなおのこと、正常な判断ができなくなってしまうんですよね。
そして、自分の中でくすぶり続けた怒りによってよくない行動が引き起こされたり、人の真意を邪推してしまったり…
それがさらに周りを巻き込んで延焼してしまうことも…

怒りを感じたとき、その場でブチギレるより、一旦おさえて持ち帰るほうが実は難しいらしいということ(いわゆるアンガーマネジメント
なにより聖書では「後者を心がけるべき」と説かれていることを知って、驚きました。
そして、今まで悩んでいたけれど、「ええんやで」と神さまに背中をポンポンとしてもらったような気がして、心が軽くなったのでした。


『旧約聖書入門』のまえがきにて、三浦綾子は「聖書には、宝石のような真理がたくさんちりばめられている」とし、さらに「たしかに聖書は一文学作品として読んでもおもしろいが、その中から真理を見つけることができなければ読む意味がない」と述べています。
(そして、理解を助けるために教会や解説書があるのだ、とも)

聖書には、先述したように、優しく励まされるような聖句もあれば、スッと背筋を伸ばされるような聖句もあります。
また、三浦綾子作品にも、印象的な聖句がタイトルの元ネタになっているものがあります。
『一日の苦労は、その日だけで十分です』など)
励ましか戒めか、後者ならば守れるか守れていないかはありますが、いずれにせよ、わたしは「人生において大切なことを学ばせてもらっているな」と感じます。

今の日本では、宗教に対して「まあまあまあね…う~~~ん、人それぞれなんじゃない?」と妙にセンシティブで、さらに大多数の人からは、お世辞にもポジティブとは言えないようなイメージも持たれています。
また、多様性の尊重が叫ばれている昨今において「これが真理なのです!」と言い切ることへの難しさもあります。

しかし、あたりが真っ暗闇であることを自覚していながら(あるいは自覚もせず)何が正解か、どこが出口なのかもわからずにうろうろとさまよっていけるほど、人間は強くないのでは? とわたしは思ってしまうのです。

新約聖書『マタイの福音書』第11章28節
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

キリスト教に出会う前の三浦綾子のように、「すぐ人を罪人扱いするし・・・」「説教くさくてかなわんわ~」というイメージをお持ちだとしても、お説教ばかりではなく、「神さまという真理の」に励まされ、慰められ、背中を押され、導かれるということもあるのだ、ということを知っておいていただけると幸いです。

救いの”光”

なるほどね!
じゃあ、神さまを信じて頼りさえすればハッピーなことしか起こらないはずだ!

いい人たちに囲まれて、
お金もいつの間にか貯まっていって、
体はどんどん健康になって、
災いは向こうから避けていくはだ!!!

・・・と、何もかもトントン拍子に進めばいいのですけど。。。
残念ながら、そううまくはいかないのが現実です。
(というか、信じればラッキーなことしか起こらない福の神がいたら、世の中みんなが信じるようになる気がします)

先述した「悪いことをしたから悪いことが起こる」にも通じる話ですが、逆に「善いことをしたから善いことが起こる」というのもまた、絶対にそうだとは言えない話なんですね。
この、ある意味人生の不条理ともいうべきテーマを、三浦綾子は『泥流地帯(続編含む)』『天北原野』などで取り上げています。

この2作は、旧約聖書の『ヨブ記』をベースに書いたと言われています。
(ヨブ記については、以前、訪問記「『天北原野』をたずねて ~その10 サロベツ原野~」にて解説いたしましたので割愛させていただきます。詳細はリンク先へどうぞ♩)

2作とも、「誰にも明確な悪意を持って危害を加えていない人」あるいは「他人を献身的に支えてきた人」「ひたむきに&真面目に努力を重ねてきた人」が憂き目に遭う、という展開が特徴です。
(悲しいことに、悪意を持っていなくても、人を傷つけてしまうこともあるのですが・・・そしてそれも三浦作品にて余すところなく描かれています)

そして残念ながら、これは現実世界でも容易に起こりうることです。
勧善懲悪にもとづき、スカッとした結末を迎えることの多い物語・マンガなどと違って、現実では、悪い人がのうのうと生きていて、正しい人がつらい目に遭っている…ということがあります。

現実の厳しさを理解しつつも、「善く生きたのだから報われてほしい」というのは、人間誰しも思うことですよね。


それと、つい忘れがちなことですが、人間は必ず死にます。
ずっと生き続けられる人間はいません。人間は必ず死にます。(大事なことなのでね)

100歳まで生きて、家族に見守られながら安らかに床の中で逝くか、
難病や急病にかかって、全身の張り裂けそうな痛みに悶えながら死ぬか、
かつて恨みを買った人に復讐で殺されるか、
明日、交通事故や災害に遭って、わけもわからぬうちに死ぬか、

いずれにせよ、自分の人生には、必ず「死」という結末が待っています。
そして、恐ろしいことに「自分がいつ、どうやって死ぬのか」を、誰一人として知ることはできません。
でも、必ず死ぬんです。詰んだ…

「死」そのものも十分怖いのですが、気になるのは「死後どうなるのか」ですよね。
こちらについては、実際にどうなるかは確かめようがないので、キリスト教ではどのように説かれているかを紹介するにとどめたいと思います。

地獄については先ほど少し触れましたが、地獄には絶対に落ちたくないのに対して、天国には絶対に行きたい! という人がほとんどだと思います。
そしてずばり、イエス・キリストを信仰する者は天国に行けるそうです。
(信仰だけでなく善行もせねばならん、などについては教派によって違いがあるそうなのですが、信仰が救いのベースになっているのはほぼ間違いないと思います)


信仰によって天国に行けるのか、ということについて、印象深かったエピソードをご紹介します。

教会のクリスマス会で、『塩狩峠』の映画のDVDを見ていたときでした。
「人間を覆う闇」の「罪」の章でご紹介した、信夫と伊木牧師のやりとりのシーンだったと思います。
伊木牧師の教会で2人が話していたのですが、その背景に1枚の絵が飾ってありました。
その絵には、人がはりつけられた十字架が描かれていたのですが、そこにはなんと十字架が3本あったのです。

・・・ん? 3本???

1本は間違いなくイエスだとして、他に2本?
そんなこと、『塩狩峠』で触れられてたっけ・・・?

見終わって、みんなで感想を話すときに、そのことについて聞いてみました。
そこで、十字架を用いたはりつけは、当時のローマ帝国における処刑方法の1つであり、イエスだけの特別な処刑法ではなかったということ。
そして、新約聖書『ルカの福音書』にて、イエスと同時に処刑された2人の罪人の話を教えてもらいました。

新約聖書『ルカの福音書』第23章
23:32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれていった。
23:33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
~中略~
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
23:40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。
23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。

聖書によると、罪を犯して処刑され、まさに死を迎えた直前にイエスと出会った男が、死後に救われたそうです。
この話の解釈も教派によって異なるそうですが、信仰とあわせて悔い改めがあり、なにより「え! 今からでも入れる保険があるんですか!?」と言わんばかりに、死を目前にした状態でも救ってくださる神さまのすばらしさがフィーチャーされているような印象を受けました。

なんとなく、死後に救われるためには、がんばって悟りを開くとか、絶対に悪いことをせずに生きるとか、厳しい修行に打ち込むなど、「常人にはなかなか到達できない境地だな・・・」みたいなイメージがありませんか?

もちろん、キリスト教においても、「善行がなかなかできないなあ…」とか「今日も教えを守れなかったなあ…」とか「つらいことが多すぎて神さまを信じられなくなってしまったなあ…」などなど、苦しいことはたっっっくさんあると思います。
ですが、信仰が救いのベースとなっているならば「並大抵の気持ちでは高みには行けないぞ」というハードルが(いい意味で)ぐっと下がるというか、安心感があるなあと個人的に感じます。


キリスト教における具体的な天国のイメージは、新約聖書『ヨハネの黙示録』などで「宝石がちりばめられた立派な城壁がある」「常に光に満ちている」などと語られているところなのですが、重要なのは

「罪によって神さまから断絶され、魂の滅びを待つことしかできなかった人間が、天国では神さまのもとで、いつまでも心穏やかに暮らすことができる」

という点です。

「罪をどうにもできなかった結果、肉体の死後、魂が消滅してしまう」とは先に触れたとおりですが、天国では逆に、ずっと幸せに暮らせるそうです。
聖書の中では、よく永遠の命という表現が用いられています。

また、天国は神さまの光にあふれていて、闇の性質は一切入りこむことができないので、上述したような闇・・・憎悪、差別、嫉妬、苦痛などとは無縁でいられるそうです。
きっと今ごろ、三浦夫妻も天国で心穏やかに暮らしているはず・・・!


キリスト教を学んで驚いたことがもうひとつ、それは死生観についてです。
キリスト教における「いま生きている世界(この世)」と「死後の世界(あの世)」に対する捉え方が、これまでとは違うなと感じました。

キリスト教では、生と死について、
「わたしたちの籍は天(あの世)にあって、この世においては寄留者・旅人である」
ととらえているそうです。
寄留とは「仮住まい」というような意味です)

新約聖書『ペテロの手紙 第一』第2章
2:11 愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。
2:12 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。
新約聖書『ピリピ人への手紙』第3章20節
3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

今わたしたちの意識はこの世にしかないので、どうしても「この世がすべてだ!」と思ってしまいますが、逆にこちらが仮住まいだととらえていることを知って、とても驚きました。

ただし、この世の生活が仮住まいだからと言って「好き勝手に暮らしてもいいよな!」というのではなく、『ペテロの手紙 第一』にもあるとおり、仮住まいであっても立派に生きることを推奨しています。

なんらかのコミュニティに属している人がいて、その人の人柄やふるまいを通して、そのコミュニティ自体の評価を下してしまう・下されてしまうということは非常に多いですよね。
この評価が過剰になりすぎると、差別偏見につながってしまうおそれがありますが、こと宗教においては神さまの姿を認知できない分、神さまを信じ従う人たちのふるまいによって、その神さまや宗教がどんなものなのかを判断されてしまう(逆に言えば、判断材料がそれしかない)ために、こう説かれているのかなと思いました。
(そしてこれが、大多数の日本人がもつ宗教アレルギーの原因だとも思っています。教義を都合よく解釈して、他人の尊厳を踏みにじる口実にしちゃアカンよ…)


さらに、この天に国籍があるという考えは、「たとえ、いま苦しくてもいずれ救われるから大丈夫」と励ましの意味でとらえられているようです。

光世さんが初めて綾子のお見舞いにおとずれたとき、綾子から「好きな聖句はなんですか」とたずねられて答えた聖句がこちらです。

新約聖書『ヨハネの福音書』第14章
14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

こちらの聖句は、イエスが処刑される前、有名な「最後の晩餐」の場面で、イエスがユダの裏切りを示唆したあと、「どうやらイエスさまがどこかに行ってしまうらしいぞ」と感じておろおろしている弟子たちに伝えたみことばです。
さきほど述べた死生観のとおり、「天国に住まい(=籍)があるのだから安心しなさいな」という聖句です。

これを聞いて、光世さんが天国に大きな望みを置いているのだと知った綾子は、さらに讃美歌も歌ってほしいと光世さんに頼みました。
そこで光世さんは、美しい声で「主よ 御許に近づかん…」と歌ってくれたそうです。
以前、文学館の展示で光世さんの歌声が収録されたCDがかかっていたことがあり、えらい美声でぶったまげました。世が世なら光世さんもバーズで歌っていた可能性が…?)

こちらは讃美歌320番「Nearer, My God, to thee(主よ 御許に近づかん)」という歌で、牧師先生でもいらっしゃる難波さんに教えていただいたところによると「葬儀で歌われることが多いので、お見舞いにはちょっと向かない歌」だそうです笑

また、映画でも有名なタイタニック号が沈没するとき、乗り合わせていた楽団の人たちが最期の瞬間までこの曲を演奏していたというエピソードもあるそうです。
ほか、アニメ「フランダースの犬」の最終回で、貧しい主人公のネロと飼い犬パトラッシュが、ずっと見たかった大聖堂の絵(ルーベンスの「キリスト昇架」と「キリスト降架」)を見て満足して亡くなるシーンで使われるなど、さまざまな作品で使われています。

こちらの曲が象徴するように、「死、別れ、困難の中にあっても、神さまの御許にいけるのだから悲しむ必要はなく、大いなる希望がありますよ」という、力強い励ましを感じました。


「神さまへの確固たる信仰は、(肉体の)死をも恐れさせないのか」と驚愕した作品をご紹介します。
先に挙げた『塩狩峠』も、実際に1909(明治42)2月28日に起こった列車事故をもとに書かれています。
主人公・信夫のモデルとなったクリスチャンの長野政雄さんが、制御のきかなくなった列車の暴走を、自分の身を挺して止め、自分の命を犠牲にして乗客の命を救ったという事件です。

『塩狩峠』も今なお読み継がれる胸熱の名作なのですが…今回は『細川ガラシャ夫人』をご紹介します!
日本史の話になると筆者のIQは3まで落ちるので、いろいろ補完しながら読んでいただけますと幸いです)

細川玉子(洗礼名:ガラシャ)は実在した人物で、「本能寺の変」で有名な明智光秀の娘であり、細川忠興に嫁いだ女性です。
戦国の世に生まれた玉子は、女性がまるで政治の道具のように扱われていることや、大名たちの間で裏切り・出し抜き・殺し合いが常となっていることなどに疑問を持っていました。
また、豪華な城を立てるなど、まるで何かにすがるように贅沢三昧で暮らす大名の姿を見て、「この世で本当に価値のあるものは、はたして富や名声なのだろうか」と違和感をおぼえてもいました。

そして、幼いころから宗教的な関心も持っていた玉子は、嫁いだあと、お付きの者である清原いと(洗礼名:マリア)によって導かれ、豊臣秀吉政権下でキリシタンが弾圧されている中、なんとか洗礼を受けるに至ります。

物語終盤、秀吉の死後、パワーバランスがぐっちゃぐちゃになった戦乱の世で、秀吉の家臣同士だった徳川家康と石田三成が対立を深めはじめます。
そこで三成が、家康側についていた大名の家族を人質にとって、諸大名を牽制するという動きに出ます。
(ちなみに、この外道ムーブは三成特有のものではなく、当時の政治における常套手段だったようです。やばすぎ…)

ガラシャの夫・忠興も家康側についていたため、ガラシャもいずれ三成に人質にとられるだろうと忠興は覚悟していました。
しかし、すでにガラシャの代わりに息子の忠利を、家康への忠誠心を誓うための人質にとられている状態でした。

そこにいよいよ三成の手が伸びてきて、ガラシャを匿うこともできない、かといって、ガラシャをやすやすと人質にとられてしまっても困る…
激しく苦悶し、愛する妻に「だからいよいよとなれば命を捨てよ」と言い出せない忠興に対し、ガラシャはすべてを把握し、人質にとられる前に死ぬことを覚悟します。

命を絶つことになってもガラシャが忠興に従う理由は、以下の聖句にあります。

新約聖書『エペソ人への手紙』第5章
5:21 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。
5:22 妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 キリストが教会のかしらであり、ご自分がそのからだの救い主であるように、夫は妻のかしらなのです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻もすべてにおいて夫に従いなさい。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。

忠興は、キリシタンが弾圧されている中でガラシャが洗礼を受けたことに激昂し、同じくクリスチャンとなった侍女たちの鼻や耳をそぐなどの脅迫めいた迫害を繰り返して、ガラシャに棄教を迫ります。
しかし、「信仰を捨てろ」という命令以外ならなんでも夫に従う、という確固たるガラシャの姿勢と、秀吉によるキリシタン迫害の手がゆるんだのもあって、最終的にはガラシャの洗礼を認めました。

そのガラシャが、自分の言うことに従って死ぬというのです。
天主デウス(=天の神さま)を信じる者には、肉体の死はおとずれても、魂の死はおとずれない」
と、毅然と言い、今まで幸せだったと忠興に感謝を告げ、家に残るガラシャ。

そして、いよいよ差し迫った三成勢を前に、ガラシャは神さまに静謐な祈りを捧げます。

自分の身をここまで守ってくださり、信仰を持たせてくれたこと。
自分の罪をゆるしていただき、神さまのみもとへ連れていってもらいたいということ。
あとに残る家族、部下、他のすべての者を守ってもらいたいということ。
こうなった原因である三成への恨みを取り去ってほしいということ。
信仰の死を与えてくださった天主の御名がほめたたえられますようにということ。

…いかがでしょう。とても、死を目の前にした人の祈りとは思えないですよね。
このあと、ガラシャは部下や娘たちを呼び、最期の別れを告げます。
ガラシャはクリスチャンなので自害することはできず、部下に刀を任せたのですが、「自分も奥様とともに果てます」と訴える部下たちに、信仰による死でない限り、神さまにいただいた命をおろそかにしないよう、そして、信仰は命よりも大切なものだとし、信仰に生きるよう説得します。

結局、ガラシャの命を絶った部下は敵前で切腹し、自分たちの手で細川邸も焼き払ってしまうのですが、彼らの壮絶な最期は戦乱の世に衝撃を与えました。
直後、ガラシャの死によって三成への反感が高まったこともあり、三成は大名の家族を人質にとることをやめたそうです。
逆に、家康側の士気を高め、関ヶ原の戦いにおける家康の勝因のひとつにまでなったとか…

死の瞬間まで神さまを信仰し、安らぎの中で逝ったガラシャ。
これはぜひ、作品を読んで、その揺るがない信仰を感じていただきたいです!


人類の長い歴史上、殉教したクリスチャンはガラシャだけではありません。
イエスの弟子たちも、迫害の末に殉教したのではないかと言われています。
また、日本においてキリスト教が禁止されていたときは、踏み絵を踏ませてキリシタンかどうかをあぶりだし、拷問して棄教を迫ったり、処刑したりしていました。

「クリスチャンだと認めてしまったら死んでしまうのに、どうして信仰を捨てないんだろう?」
と、ずっと不思議に思っていたのですが、肉体の死のあとに魂を救ってくださる神さまへの信仰と安心感があったからだと知って、とても驚きました!

この世に生きるわたしたちにとって、一番つらく、得体が知れなくて、できるだけ先延ばしにしたい
ですが、「神さまが肉体の死のあとに魂を救ってくださるから大丈夫」という救いへの確信は、死への恐怖すら超越させるのだと知りました。
なかなかここまでの境地には至れないと思いますが、いずれ来る死のためにも、三浦綾子作品を通じて、このことを知ることができてよかったなあと思います。

”光”に照らされて進む

これらをふまえて三浦綾子の人生に立ち返ってみると、三浦綾子もまた、決して順風満帆とは言えない人生を送ったことに気づくでしょう。

たしかに綾子の場合、奇跡的に病が治って、愛する光世さんと出会って結婚し、大作家として数多くの作品を世に生み出したという華々しい経歴が目立ちますが・・・
敗戦による虚無感に飲み込まれ、死の病と恐れられていた肺結核にかかり、13年もの長い闘病生活のさなかに恋人を亡くしたり、作家となった後も、直腸がんやパーキンソン病などの大病を次々と患い、体中の痛みに悩まされたりするなど、綾子の人生は決していいことばかりではありませんでした。
(綾子の経歴についても、詳しくは「ⅰ 春を待つ」にて触れましたので、そちらをご参照ください)

常人ならば心が折れてしまいそうなの中で、三浦綾子を救い、導いたものは、本人もそう語っているとおり、間違いなく神さまのだといえます。


旧約聖書の『イザヤ書』には、こちらの聖句が載っています。

旧約聖書『イザヤ書』第40章
40:28 あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は計り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。
40:30 若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を、鷲のように、翼を広げてのぼることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。

こちらは、歌詞中の
「御手で守り 新しい力を与え 翼を与えてくださる」
の元となった聖句です。

日本におけるドライクリーニングの創始者であり、今年めでたく創業120周年を迎える白洋舍の創始者・五十嵐健治氏の人生を描いた伝記小説『夕あり朝あり』
全編を通して、老齢になった氏の独白というかたちで進んでいくこの作品の中で、三浦綾子は、以下のように記しています。

「信仰を持てば艱難がなくなるというわけでは決してなく、たとえ状況が変わらなかったとしても、信仰を持つことによって神さまから艱難を乗り越える力や、心の平安や、感謝の気持ちを与えられるものである

退職から結婚までの長く厳しい闘病生活、そして生涯にわたって綾子を苦しめ続けた病気の数々。
愛する綾子に神さまの光を示し、受洗に導いた恋人・前川さんの死。

これらについて、綾子は悶え苦しみながらも、神さまへの確固たる信仰をもって

「闘病経験がなければ、わたしは傲慢にも『生きてやっている』と思っていたに違いない。病気は神さまにえこひいきされている証である
「神さまの大いなるご計画は、人間であるわたしには到底はかり知ることはできない。前川さんの死は、正しい神様がなされた正しいことだったのだろう

などと捉え、不自由な経験やつらく苦しい日々の中にあっても、神さまや、周りの人への感謝を忘れることはありませんでした。


先ほど紹介した『細川ガラシャ夫人』に少し話を戻します。
物語中盤、玉子がまだキリスト教のことをほとんど何も知らなかったとき、父・明智光秀が本能寺の変で主君の織田信長を討つという衝撃的な事件が起こります。
それにより、夫の忠興は、立場の危うくなった玉子を京都の山奥に匿うことにしました。

それまでの城での生活から一変、山奥で襲撃におびえながらの幽閉生活において、玉子の心は、身ごもった子を流産してしまうほどすさんでいきます。
そんな中、帯同してきたお付きのマリアが、「さまざまな苦しみが、玉子様にとって『神さまの恵みだ』と思えますように」と祈りを捧げていることを聞きます。

そのときはその祈りを受け入れられなかった玉子ですが、のちに忠興のもとに帰れることが判明したあとで、考えを変えました。
つまり「人生は苦難の連続だから、『苦難を避けられますように』ではなく『どんな苦難も苦難と感じなくなるように』なることが大切だ」と気づいたのです。
それをきっかけに、玉子はキリスト教について学び、洗礼を受けるに至ります。

(このことを知って、いわゆる心理学用語のレジリエンスに似たものかしら、という印象を受けました。何か困ったことが起こったり、逆境に立たされたりしたときに、それらにうまく適応していく心の力や過程のことを指す言葉です。近年、主にビジネスや教育の分野で「レジリエンスを育む」などとよく聞きますよね)


綾子が書き記した伝記小説の人物たちもそうですし、他ならぬ綾子自身が、常人ならば「もうダメだ…」と歩みを止めてしまいたくなるような艱難に幾度となくぶちあたっても、信仰をもって前向きに生きてきました。

彼らが神さまから力を得て、艱難に打ちのめされても何度も何度も立ち上がり立派に生き抜いた姿に、わたしはいつも感動するとともに、希望をもらっています。
「ホントに?」と思うぐらい奇跡的なことが続いたり、一見マイナスの出来事でも導かれるかのように好転していったりするのを読むと、「だから大丈夫だよ」と自分も励まされている感じがするのです。

たとえて言えば、彼らの前に立ちはだかっていた艱難がエベレストみたいなものだったとしたら、五体満足で日々のんのんと暮らしている中でのわたしの悩みは、そのへんの名もなき丘にも等しいレベルだということ(比較して卑下する必要はあまりないでしょうけれど…)
そして、彼らがエベレストを越えられるように神さまが背中から大きなうちわであおいでいたとするならば、きっとわたしは神さまの鼻息ひとつで丘を越えられるだろうな、というイメージです。
まるでおとぎ話のようなたとえですけど笑

そこにはもちろん、彼らがそうしたように「神さまのほうを向いて生きる」信仰の姿勢が重要になってくると思いますが…
彼らほどの大変な艱難を乗り越える力を神さまが与えてくださったのならば、わたしの悩み程度ならば造作もないだろうな、と感じさせるところに、安心感と感謝をおぼえます。

終わりに

闇の中にいるわたしたちに希望を与え、また導いてくださる神さまの
三浦綾子がその生き様や著作を通して伝えてくれた、神さまがもたらす希望

「命の讃歌」を通して、神さまのの一端について長々と述べてまいりましたが、きっとみなさんお持ちであろう疑問

「そんなこと言ったって、目に見えない神さまのほうをどうやって向けばいいんだい?」
「じゃあ、キリスト教の根幹をなす真理ってなんなのさ?」
「そもそも、イエス・キリストは何をしてくれた人なの??」

これらの疑問について、次の「愛」の章でふれていこうと思います!


最後までお読みいただき、本当に本当にありがとうございます!
わたしですら、たまに自分の記事を読み返す途中で長すぎて寝てしまうことが多いのに(笑)、長~い拙文を人様にじっくり読んでいただけるなんて、ありがたすぎます・・・

また、はじめにお断りしたとおり、解釈が足りないところだったり、都合よく解釈してしまっていたり、間違っていたりするところもあると思いますが、ご了承いただけますと幸いです。
足りない部分は、これから #綾活 を通じて、どんどんアップデートしていこうと思います!
そんな個人の雑感レベルなので、うのみにしないでくださいね。
(最近は検索エンジンの「AIによる概要」の学習に記事が使われることもありますから…こんな記事、学習されちゃたまらん! とAI避けの魔法を施しておきました☆)

「愛」の章をしっかり書くことができるか不安でもあるのですが、神さまに知恵をいただいて、がんばります!
ありがとうございました♩

ゑむゑむ@バーズ

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